嫁はんが死産した時の話

2020年1月に第一子が死産になった夫側の日記。

一段落

2020.01.17〜19

 


火葬の次の日、毎年結婚記念日に行っている近所のイタリアンレストランへランチに行った。

 

 

 

ランチは平日しかやっていないのであまり行く機会はないがチャンスがあれば行くような店。

 

 

 

平日の昼間に夫婦でランチなんていつ以来かわからない。

 

 

 

注文してしばらくたつと、真後ろの席に、おそらく0歳児か1歳児であろう赤ちゃんを連れた2人の若いお母さん達が来た。

 

 

 

夜泣きの話や離乳食の話をしている。

 

 

 

昨日火葬を終えたばかりの私たちは気にせずにはいられない状況。

 

 

 

他人の小さな赤ちゃんを見て純粋に「かわいい」という感情にはまだなれなかった。

 

 

 

こればっかりは誰も悪くないし、仕方ない。

 

 

 

このなんとも言えない気持ちと付き合って行くしかない状況。

 

 

 

こういう気持ちは時間が経てば、なくなるのか、なくならないのかもわからない。

 

 

 

どちらにしてもあまりネガティブに考えすぎずにいたい。

 

 

 

火葬まで全てが終わり、仏壇も届いて一段落ついた感じ。

 

 

 

私たち夫婦は、育てる子供のいない夫婦に戻った。

 

 

 

しばらくゆっくりしてまた2人で飲みに行ったりキャンプに行ったりしたい。

いのちは輝く わが子の障害を受け入れる時

今回の死産の原因は染色体異常21トリソミー(ダウン症)の可能性が高いとのことだった。

 

 

 

Wikipediaによると21トリソミーの場合80%は流産や死産、出生できる確率はわずか20%だそう。

 

 

 

今現在、世の中に生きているダウン症の人達はその20%の人達。

 

 

 

すごい人達なんだなと思った。

 

 

 

「いのちは輝く わが子の障害を受け入れるとき」にはNIPT(新型出生前診断)の話が出てくる。

 

 

 

10週くらいから可能で主に染色体異常の確率を調べる検査。陰性の場合な99%正確らしい。これで陽性の場合には羊水検査や絨毛検査を行い確定する。

 

 

 

存在は知っていたが、もちろんそんな事他人事思っていたし費用も高いので検査は受けなかった。

 

 

 

しかし私たちの娘は染色体異常が原因で胎内で死亡し死産という最悪の結果となった。

 

 

 

もし、10週位の時にNIPTを受けていて染色体異常の確率が高いと出て、羊水検査、絨毛検査で確定がでていれば私たち人工中絶という選択をしていたのか?していないのか?

 

 

 

そんな事はわからない。

 

 

 

でももし次があるとするならば、どうするかは夫婦で話し合わなければならない。

 

 

 

NIPTを受けるという人はもし染色体異常が見られたら「今回は諦める」と決めている人が多いと思う。

 

 

 

なぜなら染色体異常があっても関係なく産みたいと思っている人はわざわざ高いお金を払って検査を受けるとは考えにくい。

 

 

 

「2 0 1 3年 4月から 2 0 1 8年 9月までに 6万 5 2 6 5人が新型出生前診断を受けました 。検査で陽性 ( =異常 )だった人は 1 1 8 1人 。羊水穿刺などの確定検査で染色体異常が否定されたケ ースを除くと 、その数は 1 0 7 6人 。胎児が子宮内で死亡した症例が 1 8 7例ありました 。これらの子宮内胎児死亡を除外した 8 8 9人のうち 、妊娠中断を選択した人は 8 1 9人に及んでおり 、その割合は約 9 0 %にのぼっています 。妊娠を継続した妊婦は 、わずか 3 6人です 。約 4 %に過ぎません 。」

 


—『いのちは輝く わが子の障害を受け入れるとき』松永正訓著

http://a.co/iDiif9M

 

 

 

この90%の妊娠を中断した人達の理由はそれぞれあると思う。

 

 

 

私たちは死産という経験をしたことで「二度と同じ悲しみを味わいたくない」という理由でNIPTを受けるつもりでいる。

 

 

 

死産にはいろいろな原因があって染色体異常以外にも可能性がある事は十分理解している。

 

 

 

染色体異常は21トリソミー、18トリソミー、13トリソミーが全体の7割を占めている。

 

 

 

18.13トリソミーの場合は重症のケースが多く、胎内死亡になるか産まれてきても長くは生きられない可能性が高いらしい。

 

 

 

21トリソミーの場合は他の染色体異常に比べると予後は良好で平均寿命も50歳〜60歳程度と言われている。

 

 

 

もし染色体異常が陽性だった場合私たちはどうするのかを決めなければいけない。

 

 

 

実際その時になってみないとわからないのだろうが、一つだけ言えることは最初の目的を見失っては行けないということ。

 

 

 

私たちがNIPTを受ける目的は「二度と同じ悲しみを経験しない為」である。

 

 

 

「障害があるから諦める」ではない。もし21トリソミーでも無事に産まれて来てくれてればいいと思っている。

 

 

 

「元気なダウン症の子」だったらいい。

 

 

 

しかし前述した通り、21トリソミーの出生率は20%程度である。

 

 

 

NIPTを受けて、もし次のわが子が21トリソミーと診断され場合、20%という微妙な確率に掛けて妊娠を継続するのか、諦めて中断するのかは今の段階ではわからない。

 

 

 

今できる事はそうなった時の想像をしておくこと。

 

 

 

私の意見は、21トリソミーと診断されても胎児の状態によっては諦めずに妊娠を継続して欲しい思っている。

 

 

 

しかし私は自分の意見は通らなくてもよくて、嫁の意見を尊重して、嫁の希望が絶対だとおもっている。

 

 

 

もちろん一番いいのはその時の私と嫁の意見が一致する事。

 

 

 

一致しなかった場合は、嫁の意見が正しくて私の意見が間違っている。それは決定事項で絶対に揺るがない。

 

 

 

決して責任を押し付けているという訳ではない。

 

 

 

産む、産まないを最終的に決定できるのは女性であって女性が選択した選択肢が絶対に正しくないといけない。

 

 

 

正しい方を選択しなければいけないのではなくて、夫婦で選択した方を正しくしていかないといけないという事。

 

 

 

 


最終的に最悪の結果になってしまったとしてもそれが最善だったと思わないといけないし、決して後悔などしてはいけない。

 

 

 

それが宿ってくれた命に対してのできる事でもあるし、当事者がその後悲しい出来事からたちなおり、幸せなっていく為に必要な事だと思う。

 

 

 

この本の著者も言っていたが、安易な気持ちでNIPTなどの染色体異常検査は受けない方がいい。

 

 

 

受ける場合は、はじめに受ける目的をはっきりさせてから受けるべきと私は思う。

病院の話

赤ちゃんに浮腫が見つかってから、街の産婦人科から紹介された、大きなこども病院を受診することになった。

 

 

 

こども病院というくらいだから、患者はうちのような妊婦さんを除くとこどもしかいない。

 

 

 

もちろん病院なので健康なこどもはいない。ダウン症の子、子供用の小さな車椅子に乗ってる子、脳性麻痺電動車椅子にのってる子。

 

 

 

見た目が元気そうでも重大な病気を抱えてる子もたくさんいるんだろうなと感じた。

 

 

 

嫁はこども病院の中の産科にお世話になった。

 

 

 

産科の外来は患者さんは何か問題がある患者さんしかいないので少ない。

 

 

 

やはり街の産婦人科みたいに幸せオーラはなく、一度だけ1人で泣いているお腹の大きな妊婦さんを見た。

 

 

 

 


産科の看護師さんは全員助産師さんらしい。比較的若い方が多く、優しすぎるくらい優しかった。

 

 

 

 


先生は40歳くらいの男の先生で、説明もわかりやすく私たちの事を一生懸命考えてくれているのが伝わってきてすごく信頼できる先生だった。

 

 

 

 


今まだ死産から2週間と少ししか経ってないが、私は仕事に行く事ができ、嫁は家でゆっくり裁縫や料理などをしながら日常生活に戻る事ができているのも、この病院のスタッフさん達の徹底したグリーフケアのおかげだと思っている。

 

 

 

 


グリーフケアについては、自分たちでも調べたりもしたが、病院での対応や病院からもらったパンフレットで実際に経験し、目を背けたい現実に対しての向き合い方や、素直な気持ちを表現する事の大切さを知った。 

 

 

 

 


嫁や私に対する、細かい声かけ、気遣いや優しい話し方、その一つ一つの心配りが私たちの心の傷を少しずつ癒してくれたのは間違いないと思う。

 

 

 

 


私たちが何より嬉しかったのは、私たちの事をパパ、ママと呼んでくれて、生きて産まれてこなかった我が子を生きて産まれてきた子どもの様に接してくれた事。

 

 

 

 


娘をとりあげてくれた助産師さんはおそらく20代前半であろう若い助産師さんだった。

 

 

 

 


分娩の日の朝から担当してくれていて、産まれた後の夕方に手形、足形を取るお手伝いをしてくれた。

 

 

 

 


すごく印象的だったのは娘が産まれた瞬間に嫁と私の顔を見て嬉しそうに「産まれましたよ」と言ってくれた事。

 

 

 

 


私はその助産師さんの嬉しそうな顔を見て「嬉しい事」という事を実感できたし、頑張った嫁に対して、心から感謝の気持ちを伝える事ができた。

 

 

 

 


最初病院を紹介される段階で、街の産婦人科の先生から家からの距離などを参考に3つの病院を提案された。距離的には一番遠かったがこの病院を紹介もらって本当に良かったと思った。

 

 

 

娘が産まれた後に着せる産着を、義妹さんが手作りで用意してくれていた。義妹さんがサイズを予想して作ってくれたらしいがそれがぴったりだった。

 

 

 

娘は浮腫が酷く皮膚も弱く触ると捲れてしまう様な状態だったが、その手作りの産着は手を通す袖はなく、ポンチョタイプの可愛らしい産着で着させやすいと好評だった。

 

 

 

嫁も私と同じく病院に対しては感謝の気持ちが強く、そのお礼にこの産着を義妹さんから習って何着か作って1ヶ月検診の時に寄付する予定らしい。

 

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同じような思いをしている人に使って欲しいらしい。

 

 

 

 

 

悲しい出来事が私たちには起こったけれど、こんな風に優しさが優しさを繋いでいく感じに素直に感動した。

 

 

 

そして何より、私の嫁はんは、自分が辛い時に他人の事を思いやれる自慢の嫁です。

火葬

2020.01.16

 


今日は10時から火葬の予定。

 

 

 

火葬は私たちとお互いの両親の6人で送る。

 

 

 

市営の火葬場で前もって朝一で予約をしておいた。

 

 

 

昨晩、棺の中にみんなが持たせてくれた物を入れてかなり豪華になった。

 

 

 

胎児の火葬は小さすぎたら骨が残らない事があるらしい。棺の中に物を入れすぎると火力が上がってしまうので入れすぎは良くないみたい。

 

 

 

そもそも棺の中に小さな敷布団と掛け布団があるからあまり気にしてはいなかったが骨はできれば残って欲しいと思っていた。

 

 

 

朝から喪服に着替え、9:30くらいに到着したらすでにお互いの両親は到着していた。

 

 

 

うちの両親が一番下の妹から預かっていた小さいウサギのぬいぐるみと本のおもちゃをもらった。

 

 

 

うさぎのぬいぐるみは丁度骨壺くらいの大きさで可愛かったので棺には入れずに骨壺のとなりに一緒にいてもらうことにした。

 

 

 

10時までロビーで待機。10時になると係員の人が案内してくれる。

 

 

 

御焼香をあげて、これで最後と思うと悲しくなってきた。

 

 

 

最後に寝顔を見てあげてお別れ。

 

 

 

骨が残ってくれたらいいなぁと思いながら見送った。

 

 

 

1時間半くらい待つと呼ばれて案内された。

 

 

 

骨は小さいながらしっかり残っていた。

 

 

 

小さい骨を私たち夫婦で綺麗に拾って骨壺へ。

 

 

 

胎児水腫と診断されて3週間で骨になってしまった私たちの娘だが、してあげれる事はしてあげれたので少しだけ安心した。

 

 

 

その後、私の母は夜勤明けで来てくれてたので、父と一足先に帰ってもらった。

 

 

 

私の母は看護師で今年還暦ですがまだ夜勤をしている。今年で定年で退職なのでそれまで無理せずにがんばってほしい。

 

 

 

その後義両親と義妹さんとその小さい息子2人と私たちの家の近くの蕎麦屋で蕎麦を食べて帰宅した。

 

 

 

家に帰って一息ついて近くの仏具屋さんに線香とロウソクを買いに行った。

 

 

 

嫁が小さい仏壇を買ったらしい。

 

 

 

リビングの一角に志乃コーナーを作って毎日線香をあげよう。

最初で最後の親子3人での自宅

2020.01.15

 


朝起きてしばらくすると部屋持ち担当の助産師さんが来た。少ししたら先生が死産届を持ってくるとの事。

 

 

 

死産届をもらい役所に提出しに行く。役所で火葬許可証をもらい病院に提出しなければ退院できない。

 

 

 

朝一で役所に行き手続き完了。病院に戻り火葬許可証を提出。

 

 

 

あまり棺をもって病院内をウロウロしたくなかったので先に1階の受付で入院費の精算や事務処理を済ませた。

 

 

 

退院する前に、義妹さんが作ってくれたかわいい服を着て、かわいい棺のベッドに寝ている志乃と3人で、もう一度家族写真を撮った。

 

 

 

いよいよ年末から約3週間ほどお世話になった病院を退院。

 

 

 

退院時は人が多い外来の入り口ではなく、人が少ない夜間通用口から出れる様に手配してくれた。

 

 

 

後日病院については別で記事を書く予定だが、ほんとにこの様な細かい気配りや優しさがあってすごく助かったし嬉しかった。

 

 

 

最後に年末からお世話になった担当の先生と助産師さんに挨拶をして病院を出た。

 

 

 

志乃ちゃんはじめての自宅。

 

 

 

ソファーのオットマンの上を定位置にして、棺の下と中に保冷剤を入れて冷やしてあげた。

 

 

 

嫁は入院中いろんな人のブログや日記を見ていたらしい。その中の話で、子供の胎内記憶の話をしてきた。

 


子供は産まれる前、雲の上にいてその雲の上からいろいろなお母さんのところへ滑り台が繋がってる。

 


自分で、行きたいお母さんのところへ繋がっている滑り台を滑り降りるのだが、雲の上でお菓子を準備して持っていかないといけないらしい。

 


お菓子を忘れるおっちょこちょいな子もいて、忘れたら滑ってお母さんのところへ着いても神様に雲の上に戻らされるらしい。

 


なんじゃそりゃ笑

 


と思いながら聞いていたがうちの子はもしかしたらお菓子を忘れてきたのかもね笑って話をした。

 


次来る時は忘れないように私達が作って持たせる事にした。

 


2人でキッチンに立ってタマゴボーロを作った。

 

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明日は火葬の予定。

 

 

 

棺はスニーカーの箱くらいの大きさだが、中には妹が羊毛フェルトで作ってくれたペンギンさんやお手紙、義弟さん家族で作ってくれた折り紙や御朱印等を入れてかなり豪華になった。

 

 

 

私たちも折り紙や作ったお菓子、マタニティフォトで撮った写真の裏にメッセージを書いて入れた。

 

 

 

出来るだけ2人で志乃ちゃんに話しかけた。

 

 

 

最初で最後の親子3人での家でゆっくりする時間を過ごした。

 

 

 

寝る時はベッドで3人で寝るには狭かったので、嫁はソファー、志乃はオットマン、私はリビングの床で寝た。

誕生日

2020.01.14

 


今日は分娩の予定。

 

 

 

棺や保冷剤等を準備して8時くらいに病院に着く様に家を出た。

 

 

 

流れは先週の金曜日と同じ。朝8時過ぎ位から準備して陣痛室へ。9時半位から陣痛促進剤を流す。

 

 

 

この短期間で陣痛を2回も経験するなんてやめてあげて欲しいと思ってたがそういう訳にはいかない。

 

 

 

陣痛の痛みは死産でも普通に生きている赤ちゃんを分娩する時と変わらないらしい。

 

 

 

25分間隔で陣痛促進剤の量を上げる。前回に比べて陣痛の強さ、間隔が狭くなってくるのが早い。

 

 

 

この日の為に週末に、陣痛の時のマッサージに効くと言われているテニスボールを用意していた。

 

 

 

マッサージは私の仕事なので嫁の腰にテニスボールを当てる。手でマッサージするのとテニスボールはどっちがいいか聞いたところ「どっちでもいい」との事。

 

 

 

仰向けの時は腰の下にテニスボールを敷いて、横向きの時は私がマッサージする事にした。

 

 

 

1分から2分くらいの間隔で陣痛があり、嫁の呼吸に合わせてマッサージをする。

 

 

 

私もなかなかの重労働でキツかったが嫁の痛みに比べれば屁でもない。

 

 

 

2時間置き位に先生が子宮口の開き具合を確認にくる。

 

 

 

13時過ぎの診察が終わった後に、だいぶ子宮口が開いてきたという事で分娩室へ移動した。

 

 

 

分娩室へ移動してしばらくしたら私は外で待つ様に言われ分娩室の外で待っていた。

 

 

 

20分くらいしてから中へ呼ばれた。

 

 

 

もう産まれる寸前って所だった。めちゃくちゃ痛そう。嫁の頭の方から手を握る事しかできない。

 

 

 

その後10分くらいで産まれてきた。

 

 

 

当たり前だが「おめでとうございます」はない。

 

 

 

私は涙目になりながら嫁に「お疲れさん、ありがとうママ」と声をかけた。

 

 

 

産まれてきた私の子は生きていない事はわかっていたが、悲しさはあまりなくどちらかと言うと「やっと会えた」という嬉しいの気持ちの方が大きかった。

 

 

 

14:49  31cm 740g

 

 

 

普通の赤ちゃんみたいに泣かないし、大きさも小さい。浮腫があったので見た目もいいとは言えない。

 

 

 

少し綺麗にしてもらってから御対面。

 

 

 

「可愛くないけどかわいい」

 

 

 

病院側が用意してくれていた小さい服を上から掛けられていた。

 

 

 

分娩室で3人で家族写真を撮った。

 

 


嫁は分娩後という事で二時間はそのまま分娩台の上で安静。私も横についていた。

 

 

 

分娩室はもう何部屋かあって他の部屋で分娩が行われていた。

 

 

 

声がめちゃくちゃ聞こえてくる。ここは何かしらの異常がある人の病院なので普通に健康に産まれて来るという事はほぼない。

 

 

 

もしかしたら私たちの様にもうお腹の中で亡くなってるのかもしれない。

 

 

 

その人と産まれてくる子供の無事を祈りながら、3人で2時間分娩室で過ごした。

 

 

 

17時ごろにようやく病室に戻る事ができた。志乃は一旦助産師さんが預かって手形を取る準備等をしてくれるらしい。

 

 

 

病室で義両親が待っていてくれた。無事に分娩が終わり安心した様子。

 

 

 

志乃に会ってくれるとの事。浮腫があるので少しショッキングな状態である事を伝えた。

 

 

 

しばらくして助産師さんが志乃を連れてきた。義両親との御対面。孫を見る顔は優しい顔だった。

 

 

 

その後助産師さんが手形足形を取るのを手伝ってくれてなんとか取る事ができた。

 

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しばらくして義両親は帰り、部屋で親子3人の時間。

 

 

 

志乃に2人で話しかけたりして有意義な時間を過ごした。

 

 

 

志乃は寝る前に預かってもらう事にした。退院は明日の午前中にできるとの事。

 

 

 

寝る前に私から嫁に一つだけ約束して欲しい事をお願いしました。

 

 

 

私「志乃がお腹の中で亡くなった事を絶対に自分のせいだと思わない。」それだけ。

 

 

 

嫁「そやね。わかった。」

 

 

 

今日、2020年1月14日は一生忘れられない日になった。

気持ちを共有する事

2020.01.13

 


1/13(月祝)今日は分娩の準備の処置が朝と夕方にある。

 


嫁が入院している病院は基本的に面会者は宿泊はできない。面会は11時から21時まで。

 

 


私は可能な限り病室で嫁と一緒に過ごしている。私に出来ることこれしかないから。

 

 


というか私自身がこういう時くらい無理してでも仕事休んでゆっくり2人で過ごしたかった。

 

 


ずっと話す訳じゃないけどここ2.3週間いろんな話をして2人して泣いた事もあった。

 

 


なんとなくではあるが、この2.3週間2人でいろんな話をして感じた事は、これから先、一生一緒に生きていく為の大きな財産になったんじゃないかと思っている。

 

 


私たち夫婦は結婚して3年目だが、まだ喧嘩という喧嘩はした事がない。

 

 

基本的に相手には良い意味で同意を求めていないし、その場で思ったことは伝える様にしている。要するにあまり我慢はしていない。少なくとも私は。

 


今回の事も思ったことは、嫁に伝える様にしている。ポジティブな感情もネガティブな感情も。

 

 


私は子供に障害があるかもしれないと分かった時、嫁に「もしこのまま悪くなって子供が亡くなってしまった時に障害がある子供が産まれてこなくてよかった」と思ってしまうかもしれない事が怖い。と素直な気持ちを話した。

 

 


嫁は「そんな事考えるとか最低」とか「それはないんじゃないか」とか私を否定する事は言わずに「そうよね」と言ってくれた。

 

 


ポジティブな感情もネガティブな感情を同意を求めるのではなく、共有していくことでお互いのことを理解してちょうど良い距離で付き合っていく事ができるのではないかと思う。

 

 


そんなこんなを考えながら、この日も朝から晩まで病室で一緒に過ごした。

 

 


最近こういう日が多すぎて運動不足がかなり気にはなってきた。

 

 


明日は朝早く病院へ来ないといけないので少し早めに帰った。